今朝、通販の送り状を印刷していたとき、シール台紙にプリントしていたら、用紙が機械の中でぐちゃぐちゃになってしまった。
紙を取り除いて一難去ったかと思ったが、その後クリーニング等のメンテナンスをしても、きちんとプリントできなくなってしまい、閉店後にヨドバシの修理窓口へ持って行った。
が、直るのに2週間程度かかるとのことで、2週間もプリンターがないのは困るため、もう一台同じものを買うこになってしまった。
困ったものである。
さて、昨日の続きだが、バレエってもしかすると「クラッシック」と呼ばれている音楽系芸術ジャンルの中でも、かなり敷居が高いものかもしれない。
バレエの中でも一般的に最も有名な作品の一つ、白鳥の湖の「情景」の音楽は、ほとんどの人が聞けば知っていると思うのだが、なかなかカッコイイ「乾杯の踊り」や、切なくも美しい「愛のパドドゥ」、最大の見せ場である「オディールと王子のパドドゥ」を聞いて「あ、白鳥の湖」と思う人は少ないかもしれない。
CDを買おうとしても、全曲盤よりもハイライトの方が多く、しかも全曲盤においても、管弦楽曲としては良くても、このテンポでは踊れない、といったものがほとんど。
もちろん、バレエのピットに入ったことのない指揮者が、スコアを独自解釈して演奏したものも、純粋な音楽としては聴きごたえがあるかもしれないが、例えばゲルギエフのような実際にピットで指揮をしている人の録音を聞くと、まさに舞台の情景が目に浮かぶのである。
やはり、バレエ音楽は、踊りと言う芸術のために作られたものなので、一つの曲は、全体の中で意味のあるものでないとならないし、その曲のテンポや演奏は、踊りで物語を表現するための伴奏でないといけないと思う。
これは、バレエスクールでのレッスンにも言えることで、ハイライトやヴァリエーションを形だけの美しさを求めて踊るのと、全幕を歳を重ねて上達する技術に応じたいろいろな役柄で踊って、その演目全体の中で、自分はどのように踊るべきか考えながら役を作るのとでは、同じように見えても全く違うものになるように思う。
今回は三女がカラボスを演じたが、数年前には次女もカラボスを演じていた。
次女はパワフルで勢いのある、赤い炎がメラメラと燃えるようなカラボスだったが、三女は勢いではなくツンとしてクールな青い炎がゆらめくようなカラボスを目指したという。
彼女曰く、次女のような勢いやパワーを表現しようとしたら、自分だと雑な演技になってしまいそうなので、どちらかと言うと、繊細だけど怒りがくすぶっているような踊りをしたかったとのこと。
何度もこの演目を踊り、3年前にはお姫様も踊った経験から、自分が踊れるカラボス像を考えた結果の踊りだったと思う。
もし、全幕をやったことがなかったら、内面的な役作りではなく、技術的な踊り方に集中していたものだろう。
そういう意味で、全幕上演という「本物」を幼稚園児から高校生まで毎年体験させてくれるバレエスクールは本当に素晴らしいと思う。
で、コーヒーである。
最近「バリスタ」とか言って最後の抽出だけをする人がもてはやされている。
ヴェルディの太田も、ハンドドリップチャンピオンシップで全国2位のバリスタと呼ばれているが、彼女の場合は月に数百キロのコーヒーを焙煎する焙煎士でもあるわけで、少なくとも豆の状態を掌握したうえで抽出をしている点から言うと、単なるバリスタとはちょっと違うかもしれない。
が、毎年産地へ出向いて、各々の国の栽培~収穫~精選~流通を見てくると、単に抽出しているだけ、焙煎しているだけ、とはまた違ったものの見え方になってくる。
同時に、「仕入れ」において、何を見るかということも変わってくる。
そうしてみると、一般の人は【栽培~収穫~精選~流通】という全体を知る由もないので、一番身近な【抽出】の上手下手が最も重要に思えるかもしれない。
が、種からカップまでの一連のことを知ると、本当に見える世界が変わってくるから面白い。
先日も、太田が焙煎したアティトランのグァテマラをテイスティングしたときに、不合格ではないけど、あとほんの少し深めにした方が良いということを言った。
それは、アティトランでヴェルディに入ってくる区画の豆が、どんな特性をもって、どんな質のコーヒーになっているかが分かるから、他の豆だとこれ以上はヤバイと思うものも、ことアティトランのグァテマラについて言えば、そうではないということを私が知っているから。
全幕を知って、自分の演じる役を考えることが重要なバレエ。
産地の状況を知った上で、焙煎をして、その焙煎に応じた抽出ができたら、もっとコーヒーの味に磨きがかけられる自家焙煎。
そうしてみると、私の仕事は現地へ行っていないスタッフたちに、どれだけそういったことを伝えて分かってもらうかということなのだろうと思う。
これが、なかなか難しい。
頑張ろう。