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カフェ・ヴェルディの気まぐれ日記

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エチオピア旅行記その1

2019年12月2日 

1週間ぶりの日本、と言うかわが家。

蛇口をひねればお湯が出て、入ることを躊躇する必要のないトイレで用を足せ、パソコンを開ければネットにつながり、ミネラルウォーターを購入しなくても、安心して水道水が飲める。

それを当たり前ととるか、凄いことだと感じるか。

珈琲の産地から帰国した直後は、凄いことだと思えるのだが、しばらくしたら当たり前だと思ってしまう。

さて、そんなエチオピアの旅行記、まずはエチオピアの首都から農村部へ移動しながら見たものと感じたこと。

首都、アディスアベバは近代的なビルも立ち並ぶ大都市と言える。

しかし、車で走っていると目につくのは建設途中で工事がストップしてしまった建物が多いこと。

この建物、本当に建てる気があるのだろうかと思って聞いてみたら、建てる気はあるのだが、資金が不足していたり外国からの輸入に頼っている建材が届かなくてストップしているそうである。

現在都市部では建設ラッシュの状態にもかかわらず、なかなか工事が進まないのが現状で、そんなこともあり、エチオピア政府は外貨(USドル)の獲得を最優先事項としていろいろな政策を打っているそうである。

そのことが、実は珈琲産業にも非常に大きな影を落としているのだが、それはまた後の旅行記で。

 

そんな建設ラッシュが続く表通りから、少し横道に入るとビルの間にはバラックのような商店が軒を連ねる。

首都の街を歩くと、もしかしたら襲われるのではないかという緊張感が漂い、特に外人は常に周りをよく見ていないと、持ち物を取られる危険にさらされている。

同行の珈琲店主の話しでは、先日エチオピアを訪れた同業者が、ズボンの前ポケットに入れていたスマホをものの見事に盗られたということで、なおさら緊張して街を歩くことに。

また、バラックのような商店が並ぶ傍ら、首都の中でも繁華街にはちょっと昭和の香りが漂うような商業施設や飲食店も多くあり、中に入ろうとしたら入り口に座るガードマンから金属探知機を使ったボディーチェックを受ける。

カルディーズコーヒーでも、入り口の両サイドにいるガードマンからボディーチェックを受けてから入店。

カルディーズコーヒーの中はこんな感じ。

首都を離れ、延々と山間部の自然豊かな風景を見ながら走っていると、田舎町にたどり着く。

牛やロバ、馬、羊がそこかしこにいる中、車を走らせて目につくのは、大きな荷物を背負った人たち。

小学生くらいの子供から年配者まで、いろいろなものを背負って泥道を歩いている。

小さな子供が多いことも特徴的で、妊婦さんが乳児をおんぶして、その後ろから小さな子供が幼児をおんぶして母親についていくという光景があちこちで見られる。

ともかく子供が多い!

小さな子供でも、ヤギを引き連れていたり、牛や馬をひいていたりという姿を目にすることが当たり前だが、一方で家の前で遊んでいる子供や、何をするでもなく道端で立っている人も大勢。

そして、そんな人たちは、前を通る車を見たら必ずと言ってよいほど笑顔で手を振ってくる。

子供は、「ファランチ、ファランチ」と大声て言いながらおっかけてくるのだが、聞けば「ファランチ=フレンチ=外人」という意味だそうである。

最近では「チノ=チャイナ」と言われることも多いらしい。

山間部の農村では、ニンジンやバナナ、とうもろこしなどを持って車の横を走ってくる少年を目にする。

車が止まったら、窓をたたいて野菜や果物を買って欲しいと訴えてくる。この少年はとうもろこしを売りに来た。

また、売るものを持たない子供たちは、車が止まったら「ブル、ブル」と言いながら手を出してくる。

ブルとは現地の通貨で、要するに「お金頂戴」と言っているわけである。

しかし、珈琲の生産地、イルガチェフを進んでいくとだんだん子供たちの目も澄んできて、非常に人懐っこくなってくる。

カメラを持っていたら「撮ってくれ!」みたいなアピールをしてくるので写真を撮ろうとしたら、周りから大勢が集まってくる。

撮った写真の画像をモニターで見せたら「これ、お前写ってるじゃないか!」「これは俺だ!」といった雰囲気のことを大声て嬉しそうに叫んでいる。

その姿は、大好きなアイドルと間近で接したファンのような素振り。

ここにいる少年たち、これまで一度も自分の写真を撮ったことがない人が大多数なのではないかという反応。

都市部では、カメラを向けたら怒鳴ってくるし、また写真を撮れる雰囲気ではなかったのだが、農村部では「お金」というものに縛られなくても、農作物があるのでこと【食】については豊かな分、都市部の殺伐とした雰囲気ではなくフレンドリーな人たちが多くなるのであろう。

「ボロを着ていても心は錦」それを不幸ととらえるか、逆に「ボロを着ることが恥ずかしい価値観」に縛られている自分を不幸と考えるか、ちょっと考えさせられる。

しかしここで感じた自分の考えが本当に正しいかどうかは分からない。

やはり、本当にそこで生活して、人々の中に入らないと真実は理解できないようにも思うのだが、だからと言って今更エチオピアの農村部で暮らせるかと言ったら、やはりお湯が出て、電気が通っていて、安心して水が飲める生活からは離れられない自分がいる。

人間にとって、現代社会の進んだテクノロジーによる恩恵を受けられることは幸せなのかもしれないが、反面それに慣れてしまって、不便さの中に幸せを見出すことが難しくなってしまったことは不幸なことなのかもしれない。

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