いよいよ連休最終日。
いつも、平日よりも週末の方が鴨川沿いは賑わっているのだが、今回のGW中は普段より人が少ないように見えた。

今朝も、スッキリと晴れた気持ち良い朝だったが、夕方には風が強くなったと思ったら、けっこう激しい雨。
なかなか慌ただしい空模様であった。
さて、今日はインド料理店で回りのお客様の会話から考えてしまうことを長々と書いてしまいます。
私の備忘録みたいなものなので、面倒な方は読まないでください。
インド料理を食べに行ったとき、またはインド料理の話をしているとき、よく耳にする言葉が「ナン、美味しい」というもの。
中には、ナンが食べたいからインド料理を食べに行く、なんて人もいたりする。
でも、ちょっと考えてみたい。
フランス料理店へ行って、一通りの料理を食べたのちシェフに向かって「いやー、パンが美味しかったです」と言ったら、シェフはどう思うだろうか。
料理が褒められないレベルだったので、仕方なくパンをほめたのだろうか?と、むしろけなされているように感じるのではないだろうか。
ナンとはパンのことであり、それが主役なのではなく、あくまでカリーを食べるための主食である。
なので、カリーの種類によっては、ナンよりもライスの方が相性良いものもあるし、ロティやパロタ(両方ともインドのパン)で食べたいカリーもある。
カリーを食べなれた人なら、ナンというものはインド料理における主食の中では、単なる One of them に過ぎないもの、それでも多くの人が「インド料理=ナン」と思ってしまうのはどうしてかを私なりに考えてみた。
一つには、提供側の努力不足、或いは怠慢ということがあるだろう。
インド人がやっている多くのインド料理店では、カリーの奥深さをしっかりと伝えてより豊かな経験をしてもらおうと努力するのではなく、客がナンを好むと思ったら、技術を要する料理ではなく、ナンという原価も安く技術もあまり必要としないアイテムをアピールして営業してしまっているということが、お客がナンを卒業できずにいる原因の一つだと言わざるを得ない。
もう一つは、人間は自分の知っているものでしか判断できないということがある。
私も自分が好んでいろいろと食べている料理なら、今口にしたものがどのレベルにあるのか分かるが、ほとんど食べたことのないジャンルの料理であった場合、他と比較ができないからそれがどのようなレベルにあるのか評価ができない。
インド料理で言えば、限られた範囲のインド料理しか体験していないお客様の場合、カリーという料理をより広い範囲から比較して評価できない反面、パンについてはいろいろと食べているので評価ができる場合が多い。
なので、ナンのような柔らかくてふわふわで甘みがあって食べやすいパンを高く評価してしまっているのかもしれない。
要は、カリーも美味しいと感じてはいるのだろうか、比較対象に乏しく、作り方も難しそうな得体のしれないものなので、むしろ食べなれたパンに目が行ってしまっているのだろう。
これは本当に提供側の責任が大きい。
私の場合は、関心を持ったらひたすら追い求めていくので、いろいろなカリーを食べ、料理人とも会話をしてそれがどういうものかを突き詰めていくが、正直言って京都のインド料理店では、「こいつは本当に料理人としてのプライドがあるのか?」と思えるレベルのインド人が、単にインド人(最近はネパール人も多い)だというだけでカリーを作って出している店が非常に多い、と言うより大半のインド料理店がそうである故、料理であるカリーではなく安直にナンだけがもてはやされてしまう土壌を作っていると言っても過言ではないだろう。
要するに、10の知識と技術を持って1の料理を作るのではなく、1のレシピだけを教えられて1の料理を作っているのではないかと思えてしまうのである。
さて、ここからが本日の本題。
珈琲業界においても近年そのような波がきているかもしれないと危惧するに難くない経験をすることが少なくない。(めちゃくちゃ気を使って遠回しに表現しています)
Verdi においでになるお客様から最もよく聞かれることは「酸っぱくない珈琲はどれですか?」というもの。
そんなとき「珈琲の酸味と酸っぱさは全く違うものです。弊店の珈琲は完熟フルーツが持つフルーティーな酸味はあっても、未熟な果実の持つ酸っぱさはありません」とこたえているが、なかなかご理解頂けず、飲んでいただいて、やっと納得して下さるということも多い。
一方で、最近は「酸味の強い珈琲をください」と言われることも出てきた。
ここ数年新しくできたお店で珈琲を飲むと、極浅煎りで強烈に酸っぱいものが出てくることが多い。
「もう少し深く煎ったら、もっと美味しくなるのに」と感じることが少なくない。
そこで感じるのは、私たちは浅煎りから深煎りまで煎り分けて、そのうえでその豆にとっては、どの焙煎度合いが良いかを判断するが、今の風潮としては豆の特徴とは無関係に全て浅煎りにすることを前提にしているように思えてならない。
これは、カッピングの焙煎度合いが浅煎りということに起因しているのだろう。
ある意味、カッピング至上主義の弊害と言っても過言ではない。
そしてこれは、先に書いたカリーで言うところの、10の知識と技術を持って1を作るのではなく、1しか知らずに1を作っているということにつながる。
以前、Verdi のスタッフがスペシャルティコーヒーを標榜している店へ行って、「この豆の焙煎度合いはどんなですか?」ときいたら、そのスタッフは焙煎度合いという言葉すら知っているのかどうか、焙煎についての返答はなく、カッピングのプロファイルに書かれているような評価を繰り返したということがある。
1について1しか知らなかったら、それ以上のプレゼンはできないわけで、珈琲についての知識を持たないお客様に対して、今飲んでいただいている珈琲について1を断定的に説明してしまったら、お客様もそれ以上の深い世界を楽しむことはできなくなってしまう。
そして、今の世の中、10を学んでから商売をしようというのではなく、とりあえず1ができるからそれで商売をしようという発想が主流になりつつあるようで恐ろしい。
まずは、Verdi という店がしっかりと10を知った中で1について多角的に説明できるような店にしていかねばならないと感じているし、それをどのようにしてお客様に伝えていくかも考えねばと思う。
カリーに例えて言うならば、Verdi のお客様には「ナン美味しい」と言わせるのではなく、「このカリーが美味しい」と言って頂けるよう、そしてなんでもかんでもナン至上主義と言うのではなく「このカリーには、この主食が相性良い」=「この豆はこの焙煎度合いだからポテンシャルを発揮できる」と分かって頂けるようにしていかねばと思う。
インド料理店で「ナン、美味しい」と言う言葉を耳にするたび、そんなことを考えてしまう今日このごろ。
これ以上深く書いてしまうと、同業者から嫌われそうなのでこのへんで。