自家焙煎珈琲 カフェ・ヴェルディ

カフェ・ヴェルディの気まぐれ日記

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知らなくてもいい珈琲の話-その14【珈琲年代譜 Part-3】

2021年4月18日 

珈琲年代譜、今回は19世紀~20世紀にかけて珈琲栽培の広がりについて書いて行きます。

しかし、概ね18世紀中に主要な産地では珈琲栽培が根付いてきたので、19~20世紀はその後の浸透というレベルになってしまうため、ボリューム的に物足りないかもしれません。

そこで、先に「コーヒーのパンデミック」について書きたいと思います。

18世紀の間に、トルコを中心としたムスリム社会やヨーロッパでコーヒーは度重なる迫害を受けながらも、その地位を築いて行きました。

しかし、世界的な生産量が飛躍的に伸びたのは19世紀以降、アメリカがコーヒーの一大消費国となったことによります。

1773年のボストン茶会事件以降、アメリカでは紅茶ではなくコーヒーを飲むことが愛国心の表れだとまで言われ、コーヒーが愛飲されるようにはなっていましたが、アメリカでの飲まれ方(焙煎と抽出)は、当時のヨーロッパから見ても一風変わったものでした。。

まず、焙煎について、ヨーロッパでは大小さまざまな焙煎器が発明され、また抽出器具の発明も盛んで、1710年にフランス人が「ドリップ」によるコーヒー抽出方法を考案した後は、いかに美味しくコーヒーを淹れるかということがヨーロッパの人々にとって重要な課題となって行きました。

一方でアメリカはどうかと言うと、地元の雑貨店で生のコーヒー豆を購入して、自宅でフライパンと薪ストーブを使い焙煎、その後、臼かすりこ木のようなもので挽いて、湯に入れて煮だして飲んでいたようです。

当然焙煎した豆は煎りムラがひどく、煮だし抽出では、ほとんどパウダー状に挽かれた粉が沈殿するまで待つか、添加物で粉を抑えるかして飲まれていました。

その添加物とはどのようなものか、19世紀のアメリカで実際によく読まれていた料理本には、コーヒーの調理方法として以下のような記述があります。

コーヒーの作り方は、水1パイント(473cc)に大さじ二杯のコーヒー粉を入れ、それを卵の白身と黄身、殻と混ぜて熱い湯を注ぎ、10分弱煮だてること。

卵をいれることによって、粉を固めて飲みやすくしていたようですが、卵がないときは、タラ(魚)を使った人もいたとのことです。

それでどうなったのか、一度飲んでみたいような、飲みたくないような・・・

ただ、1837年に出版されたアメリカの料理本にはこのようにも書かれています。

おいしいコーヒーを淹れるには、淹れる直前に豆を煎らなければならない。

とりあえず、煎りたてで飲まれていたようです。

そのころ、ヨーロッパでは、コーヒー沸かしの特許や抽出の工夫が花盛りで、フランスでは革命前夜にまでパリの大司教ジャン・バプテスト・ド・ベロワが後のドリッパーの原型ともいえる「二層式ドリップ式コーヒー用ポット」を開発していたほどでした。

そんな中、1833年にニューヨークのジェイムズ・ワイルドと言う人が、アメリカで最初に業務用焙煎器をイギリスから輸入しました。

その後、1840年ごろには都市部で焙煎を業務とする人たちが現れ、大型焙煎器関係の特許が相次いだようです。

当時、最も知られた焙煎器は1846年にボストンでジェイムズ W カーターによって発明された「カーター・プルアウト」でしたが、それは穴の開いた巨大な円筒形の容器がレンガでできたかまどのなかで回転するというものでした。

焙煎が終わると煙が充満したバカでかい円筒形の容器を水平に引き出して、豆を木製の巨大なトレーに空け、シャベルで攪拌して冷ますというもので、大変な労力だったことは想像に難くありません。

そんな中、1864年にジェイベズ・バーンズによって、自動的に中身が取り出せる焙煎器が発明されました。

2つのスクリューによって円筒形容器が回転し、中の豆が上下に攪拌され、扉を開けるとスクリューによって自動的に冷却トレーの上に豆が排出されるという仕組みで、現代における焙煎機の原型と言えるものでした。

その後15年でこの焙煎器は数百台売れて、極めてスピーディーに大量生産への道を歩むことになります。

コーヒーの焙煎が、近代化するのと時を同じくして、アメリカの産業面における発明が時代を大きく変えていきました。

まず、電信機、鉄道、蒸気船などが流通と通信に大変革をもたらします。

石版印刷の発達が、新聞や雑誌などを通した大規模な宣伝活動を可能にしました。

その結果、大実業家が市場の独占を企てて、ブラジルで大量生産をするようになります。

しかし、大量生産 ⇒ 価格の暴落 ⇒ 生産抑制 or 病害虫被害 ⇒ 価格の暴騰 ⇒ 大量生産というループを繰り返します。

そして、20世紀に入り1920年~1930年頃にスタンダード・ブランズやゼネラルフーズ等が、コーヒーの銘柄を買収。

ラジオを通した宣伝によって、全米規模でのスタンダード化が始まります。

それに伴って、淹れ方も猛スピードで近代化し、大手による市場の寡占が価格の安定(とは言い切れないものの、暴落と暴騰の無限ループは緩和)につながり、コーヒーというものの「味」についてもスタンダード化が進みました。

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と、ちゃらっと流すつもりが、けっこう長くなってしまいましたが、本日の本題、19世紀~20世紀における珈琲栽培の広がりです。

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珈琲年代譜 19~20世紀にかけて珈琲栽培の広がり

1825年

ブラジルで栽培されていたコーヒーがハワイへ。

1900年~

アフリカ:中央アフリカ(コンゴ)原産のカネフォラ種(ロブスタ)がアフリカ各国で生産されるようになる。

アジア:東インド諸島とインドでカネフォラの栽培が始まる。

1908年~

日本から中南米への移民が始まる。

世界大戦までの間に

ブラジル:189,000人

ペルー:33,100人

メキシコ:14,500人

他と合わせ24万人が渡航、特にブラジルへ移住した人たちの多くは不毛の土地を与えられ、そこで苦労を重ね荒れた土地を整備して、コーヒー農園を開いた人も多かった。

ただ、その後の戦争で敵国民として農地の没収や強制収容、それらを逃れるために日本へ帰国した人なども少なくないが、今でもブラジルの農園には日本人名のついたところも多く、戦争後に復興して農場経営を再開した人も多い。

ちなみに、ヴェルディが使っている「セーラネグラ農園」の農場主 オルランド中尾氏は日経3世で、祖父に当たる中尾増吉氏が30年にわたる苦労の末作り上げた農園を(戦争でいっとき廃れるが)今も守り高品質な豆を作り続けています。

1950年

パプア・ニューギニアでコーヒーの栽培が始まる。

イタリアの宣教師が農業と布教活動を合わせてニューギニアの山間部で指導。

今も、その名残のコーヒー農園を持つ修道院や教会に附属する学校などが少なくない。

1950年~1070年

コートジボワール、アンゴラ、ウガンダでロブスタの栽培が始まる。

1990年

ベトナムがロブスタの一大産地となり、それまでアジアで最大シェアを誇ったインドネシアを抜く。

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このように、19~20世紀は、アラビカ種で高品質なコーヒーの栽培が難しい国々でロブスタ種の栽培が盛んになってきました。

ちなみに、アジアでロブスタと言えばジャワ島で作られる「ジャワロブスタ」が有名で、ジャワ島のコーヒー栽培はロブスタ種がスタートだったと思われている方も少なくないかもしれません。

しかし、ジャワ島に最初に入ってきたコーヒーは、ババ ブーダンが持ち出したエチオピアを祖に持つ種子で、見た目にもティピカやブルボンより細長く、今でもエチオピア在来種の形状に似ています。

しかし、ジャワ島の季候などの問題もあり、非常に生産性が低く、育てにくいこともあり、現在ではジャワ島の純粋なジャワ品種は極めて希少な存在になってしまいました。

話は元に戻り、19~20世紀はロブスタが台頭した時代ともいえます。

同時に、それはコーヒーが一大産業として世界に君臨するための一つの要因となったと言っても過言ではないでしょう。

つづく

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