今朝は曇り空だったが、ここ数日の中ではとても涼しくて、川沿いを歩いていると、一瞬クーラーの風か?と思うような涼しい空気が心地よかった。
昼間も過ごしやすい一日で、今夜の宵々山は大いに賑わうことだろう。
夕方以降のVerdi は、全然賑わっていなかったけど・・・
さて、昨日のたわごとの続き。
Verdi が開業した当時、つまり今から13年前は、どちらかと言うと深煎りがブームであった。
京都の自家焙煎と言えば、六曜社地下店さんや、オオヤコーヒさんが有名で、どちらもかなり深い焙煎で、苦味が強くてスモーキーな風味だった。
一方で昔ながらの喫茶店の多くは、熱いうちは苦く感じていたのに、冷めるとかなり酸味の強い珈琲を出す店が多く、個人的にはもっとすっきりとして香り豊かで、後味にキレのある珈琲はないものかと思っていた。
そんなときに出会ったのが、東京のバッハコーヒー。
コクはあるのに、後味スッキリ。
棚にはずらっと各国の豆が焙煎度合い順に並び、それぞれに違った味わいを楽しめるという、当時の京都にはないスタイルの自家焙煎珈琲店であった。
いや、正確にいうと、京都にも数か国の珈琲豆を並べて、味わいの違いを楽しめる店はあったが、焙煎度合いの幅が狭く、浅煎り~深煎りまでバラエティーに富んだ焙煎度合いの珈琲を楽しめる店はなかったわけである。
バッハの珈琲に衝撃を受けた私は、その後いろいろなお店の珈琲を飲み歩いた。
有名どころは、ほぼ回り、多くの本を読んだ結果、焙煎の論理において整合性がとれた主張をしているのは、バッハだけだと確信し、その門をたたいた。
焙煎の修行をさせてもらいながら、本当にちょっとの火通りの違いが、味に大きな変化をもたらすことを知り、同時に珈琲の味作りというのは、情緒的なものではなく、化学反応による理論的なものであるということも痛感した。
そんな中で、浅煎り~深煎りという焙煎度合いと、各々の焙煎度合いに適した豆というものが分かってきた。
昨日はステーキの話をしたが、珈琲豆と肉を置き換えていうと、厚切りの肉と、しゃぶしゃぶ用の肉を同じフライパンで、同じ火力で同じ時間焼いた場合、焼く時間がかなり短かったら、しゃぶしゃぶ用の肉はしっかりと火が通るものの、厚切りの肉は、表面にちょっと色がつくかどうかで、中は完全なレアな状態になる。
一方で、焼く時間を長くしたら、厚切りの肉はミディアム程度の焼き加減になるが、しゃぶしゃぶ用の肉は、真っ黒焦げになってしまうかもしれない。
つまり、どの豆をどの焙煎度合いで仕上げるかということは、一見同じように見える珈琲の生豆が、実はしゃぶしゃぶ用の肉のような薄さのものか、厚切りステーキ用の肉のようなものかを見分ける目と経験が必要になってくるというわけである。
10数年前の深煎りブームの頃は、火の通りが悪い、身が厚くて硬い豆のみならず、本来は浅煎りに向いている、身の薄い柔らかい豆も深煎りで仕上げられることが多く、そんな珈琲を口にした時は、あまり香りを感じず、ただただ苦かった思い出がある。
一方で、昨今の浅煎りブームにおいては、本来しっかりと火を通さなくてはならないような硬い豆も、極浅煎りで仕上げられることが多く、そんな珈琲を口にすると、酸っぱ味だけが舌を突くこともしばしば。
世の中、だいたい極端にぶれる傾向があるもので、極端な深煎りがもてはやされた後は、極端な浅煎りが流行るというのも分からないではない。
しかし、このところの潮流である、極浅煎りに仕上げる人が多い本当の理由は、もっと別のところにあるのではないかと、最近感じ始めている。
と、ここまで書いてみて、まだまだ話は長くなりそうなので、この続きはまた来週。(明日は土曜日で、日記はお休みなので)
なんか、マニアックな話をひっぱってしまってすみません。
興味のある方は、お付き合いくださいませ。



