自家焙煎珈琲 カフェ・ヴェルディ

カフェ・ヴェルディの気まぐれ日記

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良い手、悪い手

2017年10月27日 

今朝もスカッと晴れた朝。

でも、まだ太陽が顔を出していないので、目に映る風景はどこか色あせて見え、コントラストもあまりない。

でも、こういう日の出前の淡い水彩画のような世界、けっこう好きだったりする。

歩いていると、年老いた犬を散歩させている年配には見えるが若者以上に元気な女性が犬に向かって叫んでいる。

「明日から天気悪いよ、またしばらく散歩できひんかもしれんやろ、今日のうちにもっと歩こ!」どうやら犬の方は疲れてしまったらしく、引っ張られても足を踏ん張って動こうとしない。

すると、また女性が「もうちょっとしたら、おじいちゃんが迎えに来てくれはるし、明日は雨で歩けへんにゃから、今日のうちにそこの橋まで歩こ」と。

『がんばれ犬』と心の中で応援しながら、そうか、明日から雨か・・・と。

このところ週末ごとに雨が降って、お客様商売をしている私たちにとってはあまり有難くない秋である。

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さて、先日テレビを見ていたら、囲碁の井山七冠の特集をしていた。

七冠を手中にしたものの、名人の防衛に失敗、しかしすぐに返り咲いて前人未到の陥落後即七冠復帰という偉業を成し遂げたわけだが、陥落から復帰までの井山七冠の心理面での移り変わりを見て、いろいろと学ぶところがあった。

最も注目したのが、名人陥落後は、たびたび囲碁会館へ出向き、若手の棋士の対局を見ていたそうである。

井山七冠の囲碁は、セオリー通りには運ばない、あっと驚くような一手から有利に運んでいくことが多いと言う。

しかし、頂点に達してしまった後は、攻めの姿勢から守りに入ってしまい、自分本来の試合運びができなくなっていたとインタビューの中で語っていた。

無難な試合運び、セオリー通りの守りでは、強い相手にはなかなか勝てないと、若い棋士の言い方によっては常識的ではない手を見ながら、「こういう手もあるのか」と思うこともあったそうである。

その上で、「強くなると、【こうでなくてはならない】と考えてしまい、【良い手】とされるものを尊重することが多くなる」としたうえで「【悪い手】とされているものも、場合によっては上手く使えるのではないか」と若手棋士の対局を見て思い出したといったことを語っていた。

これを自分の仕事に置き換えてみると、Verdi も15年近く営業を続け、ある意味スタイルを確立した店舗と世の中からは見られているのではないかと思う。

そういう中で、私は「こうでなくてはならない」と考えてしまっていないだろうか?

そもそも世の中には「こうでなくてはならない」ということは存在するのだろうか?

多くの場合、人間の行動において「こうでなくてはならない」というのは、自分や周囲にいる人の価値観による思い込みに他ならないわけで、必ずしも世の中の全ての人に当てはまるものではない。

同時に、「こうでなくてはならない」と思い始めた瞬間、他の価値観を認めない方向に進んでしまう。

物事は全て多面体、どの方向から見るかによって答えは変わってくるのだから、ほとんどのことにおいて絶対的な正解は存在しないのではないかと思いながら仕事をしないと、今は成功していても近い将来痛い目にあいそうな気がする。

先日、「最近のコーヒーは酸味が強いものが多い」とぼやいていたが、それを単に自分の価値観に照らし合わせた【コーヒー】とは違うからというだけで非難するのではなく、どうしてその味が好まれるのか、味の向こう側にあるバックグラウンドについて考えてみると、意外と極浅煎りも【悪い手】ではなく【良い手】である可能性も否定できない、かもしれない。

恐らく井山七冠は、若手棋士の【悪い手】とされている一手を見たとき、セオリーでは悪い手でも、単に良し悪しで判断したのではなく、その奥に何があるのか、どのような意志の元その手が繰り出されたのか、それをすることによって、何がどうなるのかを考えて、自分の囲碁の参考にしたのではないかと思う。

私も単に今目の前で展開されているコーヒーの傾向を自分の価値観に照らし合わせて評価するのではなく、もっとそのバックグラウンドや、今のコーヒーの傾向を多くの人がどうして良しとしているのか、その心理状況まで考えてから評価しないといけないと強く感じた。

その上で、Verdi にとって取り入れられることがあるのか否か、世の中の傾向とどのように付き合っていくべきなのか、考えねばならないと思いながら見るテレビの特集であった。

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