前回までは、植物としてのコーヒーがどのように世界に広がったかを書いてきましたが、今回はその中でもとりわけ重要な役割を果たした人物について詳しく紹介します。
現在のスペシャルティコーヒーをけん引するのは、間違いなく中米の生産国。
その中米の祖木となったのは、1616年(「いろいろ」と覚えてください。まぁ、覚えなくてもいいですけど)にオランダ人旅行者がイエメンのアデンからオランダへ持ち帰った木と言えます。
しかし、オランダから直接中米へ渡ったわけではなく、その後約100年の間に栽培によって増えた木の一本が、フランス(パリ)に渡り、その木が実質的な祖木となりました。
その木は、1714年にフランス政府とアムステルダム市が折衝を行った結果、アムステルダム市長からルイ十四世に贈られた、樹高5フィート(約1.52メートル)の若木です。
マルリ城に到着したコーヒーの木は、翌日パリ植物園へ移され、アントワーヌ・ド・ジュシューという植物学者(1686~1758)によって大切に植え替えられて、すくすくと育ち多くの実をつけました。
それから10年ほどの間に、ルイ十四世に寄贈されたコーヒーの木はカリブ海の植民地へ移植しようとされましたが、ともに失敗してしまいます。
そんな中、私用でフランスに帰国していた、マルティニーク島の歩兵隊長で海軍将校だったガブリエル・ド・クリューが自身が住むマルティニーク島へコーヒーの木を移植しようと考えます。
しかし、そのコーヒーの木は厳格に管理されていて、入手困難に思われました。
そこで、彼は知り合いだった王の典医シラク医師の力を借りて、生命力の強そうな苗木を譲り受けることになります。
長い航海に耐えられそうな苗木を選び、出港まではロシュフォールの監督官であったM・ベロンにより厳格に保管されました。
そして、いよいよマルティニーク島へ出航となったのですが、ド・クリューがマルティニーク島にコーヒーの木を持ち込んだ年については2つの説があります。
1つは1720年、そして現在よく知られている説は1723年。
今のように、フランスからカリブの島へ、飛行機で1日飛べば行ける世の中ではなかったので、長い時間をかけてモーターなどなど付いていない帆船で航海しなくてはなりませんでした。
8℃を下回ると枯れてしまう、しかも大量の水を必要とするコーヒーの木を長い航海で移植すると言うことは、今の感覚では考えられないほど大変な作業だったことは想像に難くなりません。
どうやら、ド・クリューは二回航海をして、一回目は枯らしてしまい、二回目で苗木の移送に成功したようです。
M・ベロンによって保管され持ち出された苗木を枯らしてしまったド・クリューは、二度目の航海時、出港直前に種を植えて船上で発芽した苗木を育てつつ移送したという説があります。
ド・クリューが残した航海手記によると水不足が苗木と自分の生命を脅かしたと語っています。
と言うのも、この航海はまさに波乱万丈だったようです。
ド・クリューが乗った商船は、チェニスで海賊に襲われ、やっとの思いで難を逃れると、今度は大嵐に遭い、危うく海の藻屑となりかけ、嵐が去った後は長く続く凪にあって飲み水が底をつき、残りの航海は満足な水の配給がなかったからです。
ド・クリューは手記に「水が不足して、一か月以上の間、配給される僅かな水を私の希望の光ともいえるコーヒーの木と分かち合った。その木はまだ幼く脆弱で、成長も遅れて弱りかけていたため、より手をかけて世話をしなくてはならなかった。」と書いています。
ド・クリューは毎日甲板で苗木を日にあて、曇りの日や寒い日にも苗が死なないよう保温性を考えたガラス箱に入れていたと言います。
そんな中、この苗木を盗もうとする者も現れたようですが、ド・クリューは我が子のように大切に木を守り、海賊という外敵や、嵐と凪という自然の脅威、そして船内に潜む盗人という卑劣な同行者の難を逃れ、なんとかマルティニーク島への移送に成功しました。
つづく