先週に引き続き、ガブリエル・ド・クリューのコーヒー移植について書きます。
1723年にナントの港を出たド・クリューは、一難去ってまた一難という苦難の船旅を無事に乗り切って、マルティニーク島へ無事コーヒーの木を持ち帰ることに成功しました。
島に着くと、彼の自宅にある庭に若木を植えましたが、木を盗まれることを恐れ、常に目の届く場所を選び、さらに木が大きくなるまでは棘の灌木で囲んだうえ、番人まで立てたと言います。
ド・クリューは、「船上で危機を乗り越えるたび、この木に対する愛着が増し、どれほど大切に育てても大切にし足りないと思えるほどだった。」と語っていたそうです。
18世紀のマルティニーク島で、まだ珍しいコーヒーの木を盗もうとする者がいてもおかしくはありませんが、私がブラジルの農園へ行ったときも、農場主たちはド・クリューのような細心の注意をはらって木を育てていたのを思い出します。
COE優勝農園へ行ったとき、ゲイシャを育てているけど見るか?と言われ、ピックアップトラックの荷台に乗って向かったのですが、普通にカツーラやブルボンが奇麗に列をなして植わっている中に、ほんの一部だけ小さく番号札がついた木がありました。
「これがゲイシャ」と言われたものの、これは知っている人でないと絶対に分かりません。
「どうして他の木と全く判別がつかない状態で育てているのか?」と訊いたら、「泥棒が、どの木がゲイシャか分からなくするため」と。
「木の葉を隠すなら森の中」とは、まさにこのことだと思いました。
が、18世紀のマルティニーク島には、まだコーヒーの木が1本しかありません。
なので、逆に目立つものの、盗みにくいよう棘の灌木に番人だったのでしょう。
話は戻り、ド・クリューの木は想像以上に順調に成長し、3年後の1726年には2ポンド(約900g)の種を収穫、その種を大切に育ててくれそうな人に配り、コーヒーの木を増やして行きました。
翌年には、さらに豊作でより多くの種を収穫できたのですが、当時のマルティニーク島における一大産業はカカオの栽培でした。
ところが、1728年に巨大ハリケーンがマルティニーク島を襲い、カカオの木が壊滅状態に陥ってしまいました。
そんなとき、カカオに代わって植えられたのがコーヒーの木で、その後50年ほどの間にマルティニーク島は1,879万本のコーヒーの木が生い茂る、文字通り「コーヒー生産国」となりました。
帰島当時、歩兵隊長だったド・クリューは、最初の収穫があった1726年には歩兵大隊長、1737年にはグァドループ総督、1750年には聖ルイ勲章であるコマンドールを受賞。
1746年フランスへ戻り、ルイ15世に謁見した折、海軍大臣のルイエ・ド・ジュールから「フランスと植民地およびその商業全般に対し、コーヒーの栽培で目覚ましい貢献をした類まれな将校」と紹介されています。
1760年に退役、1774年に88歳で逝去。
その訃報は、新聞でも大きく取り上げられましたが、その後のフランス革命後、聖ルイ勲章受章者であるド・クリューの名は長く忘れられていました。
しかし、1918年マルティニーク島のフォール・ド・フランスにド・クリューに捧げる植物園ができました。
もし、マルティニーク島でコーヒー栽培がおこなわれていなかったとしても、どこかのタイミングで現在の生産国にコーヒーの木は移植されていたことでしょう。
しかし、ド・クリューがいなかったら、確実にコーヒーの歴史に刻まれた年代譜は違うものになっていました。
現在私たちが飲んでいる中米のコーヒー、その第一歩はフランスの歩兵隊長によって踏み出されたもの、ガブリエル・ド・クリューに畏敬の念を持たずにはいられません。