自家焙煎珈琲 カフェ・ヴェルディ

カフェ・ヴェルディの気まぐれ日記

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知らなくてもいい珈琲の話-その13【珈琲年代譜 Part-2】

2021年4月11日 

先週からスタートした「珈琲年代譜」今回は、17世紀~18世紀にかけて珈琲栽培がどのように広がって行ったかを書きたいと思います。

珈琲文化や、コーヒーショップ、飲まれ方等については、一応題目だけを年代譜の中に入れておきますが、それらについての詳細は、今後「国ごとの珈琲文化発展」といったタイトルで書きたいと思います。

そして、先週の内容に追記。

珈琲について最初に書かれた文献は、10世紀ごろの医師による処方箋と書きましたが、調べたところより詳しくは 【10世紀ごろ、アラビアの医学者であるラージー氏によって書かれた薬効の書】ということを補足しておきます。

…………………………………

珈琲年代譜 17~18世紀にかけて珈琲栽培の広がり

1600年頃

コーヒーの利権を独占したいトルコにより、厳しい持ち出し規制が敷かれている中、ムスリム(イスラム教徒)の巡礼者、ババ・ブーダンが 7粒の発芽可能な種子をインドへ持ち出す。

この種子は、インド南西部のマイソール地方で栽培され、この種子から育った木が後にオランダ領 東インド諸島へ広がっていく。

1610年

当時のトルコにおけるコーヒー文化を知る文献として英国の詩人、サー・ジョージ・サンズが書き残したものがある。

『トルコ人は、コーヒーの前に腰を下ろし、日がな一日しゃべっている。コーヒーは煤(すす)のように黒く、味もそれに似たようなものである。』

どうやら、このナイトの称号を持つ英国詩人にとってコーヒーは口に合わないもののようだったが、その後トルコの文化に触れたサンズ氏は、こう書き加えている。

『彼らにとってコーヒーは消化を助け、敏活さをもたらす秘薬のようである』

1616年

オランダ人旅行者が、アデンから1本のコーヒーの木をオランダへ持ち帰る。

※ アデン=アラビア半島の南端、イエメンの港湾都市

1650年

イギリス:ユダヤ系レバノン人のジェイコブズ氏がオックスフォード大学に英国初のコーヒーハウスを開業。

その2年後には、ロンドンでギリシャ人のパスカ・ロゼ氏がコーヒーハウスを開く。

イタリア:街角で「アクア セドラ タージョ」と呼ばれるレモネード売りが、チョコレートや酒とともにコーヒーを売るようになった。

1658年

1616年にアデンからオランダへ持ち込まれたコーヒーの木の子孫が、セイロン(現スリランカ)で栽培される。

1669年

フランスの新任トルコ大使 ソリマン・アジャ氏が、パリで豪華なパーティーを開きコーヒーを紹介、そのことがきっかけで、パリでは熱狂的なトルコブームが起こり、コーヒーが一気に広がる。

1683年

ウイーン:フランツ・ゲオルグ・コルシツキーがウイーン初のカフェ「ブルーボトル」を開業。(今後、ウイーンのコーヒーについて記載する折に詳細説明いたします。)

1689年

パリ:イタリアからの移住者、フランソワ・プロコプ氏が「コメディ・フランセーズ」前にパリ初の本格的カフェ「カフェ ド プロコプ」をオープン。

1699年

オランダ人が、ババ・ブーダンによってマイソールへ持ち込まれたコーヒーの木の子孫をマラバルからジャワへ移植。

間もなく、スマトラ、セレベス、ティモール、バリなどへ広がり、それまではトルコが独占していたコーヒーだったが、以後オランダ領東インド諸島のコーヒーは世界市場で大きなシェアを握る。

1710年

フランス人が、トルコ式の「煮だし」抽出ではなく、「濾して浸出する」コーヒー抽出方法を考案。(現在のドリップコーヒーの原型となる)

同時に、これまでになかった「ミルクを入れる」飲み方がパリで人気となる。

このことにより、コーヒー飲用の文化が年齢・性別の垣根を越えて大きく広がる。

1714年

オランダからパリの植物園にコーヒーの木が贈られる。

1718年

フランスがブルボン島(レ・ユニオン島)=アフリカ南東・マダガスカルのすぐ東でコーヒー栽培を開始する。

このブルボン島のコーヒーが、タンザニア、ケニアなどへ移植されアフリカのコーヒー栽培が活発となる。

1723年

フランス人の歩兵大尉 ガブリエル・マチュー・ド・クリューによって、パリの植物園で栽培されていた苗木がマルティニーク島=カリブ海の仏領島国に持ち込まれる。

後に、この木の子孫が中南米を中心とした多くの国々の先祖にあたる木となる。

1727年

ブラジルへコーヒーの木が持ち込まれる。

オランダ領スリナムと仏領ギアナで国境紛争が発生。

調停役として、当時ポルトガル領だったブラジルから パリェタという人物が送り込まれる。

しかし、このパリェタ氏は両国の調停役というだけではなく、当時コーヒーの木を持っていなかったポルトガルから重要な役目を負わされていた。

それは、スリナムからコーヒーの木を盗み出して、ブラジルへ密輸することであった。

このパリェタ氏、色男として知られており、得意の女ったらしぶりをいかんなく発揮し、見事フランス領事夫人を寝取ってしまう。

そんなパリェタ氏にそそのかされたフランス領事夫人は、彼がブラジルへ帰るときに、調停の労を労う名目で花束を渡すのだが、その花束の中にはコーヒーの苗木5本が仕込まれていた。

そうして見事ブラジルのパラ州へコーヒーの木を持ち込み、その後200年の時を経て、ブラジルは世界最大シェアを誇るコーヒーの産地となった。

ブラジルのコーヒー栽培は、スリナムからコーヒーの木を盗んで始まった。

しかし、スリナムのコーヒーは、中南米の祖木と言われるド・クリューによるマルティニーク島の木ではなく、それ以前にどこかの誰かが盗み出したコーヒーの木をスリナムとハイチ、ギアナに持ち込んで栽培を始めたと言われている。

そうしてみると、ブラジルのコーヒー産業は、コーヒーの木と女心を盗んだ人々によって築かれたと言っても過言ではないかもしれない。

ブラジルらしい逸話と言ったら怒られるかもしれないが・・・

・ 1791年

スリナムとほぼ同時期に盗まれた木から始まった、ハイチのコーヒー産業が、奴隷による反乱で衰退してしまう。

1773年

ボストン茶会事件(今後、イギリスのコーヒーについて記載する折に詳細説明いたします。)

1806年

ナポレオンの大陸封鎖により、ヨーロッパへのコーヒー供給が途絶え、チコリによる代替コーヒーが広まる。

こうして、アラビア半島で1,000年以上門外不出の貿易商材として扱われていたコーヒーは、ババ・ブーダンが持ち出した後、17~18世紀にかけて堰を切ったように世界各国へ広がり栽培されるようになりました。

そして、ヨーロッパの国々で愛飲されるようになったものの、コーヒー繁栄の歴史は、同時にコーヒー迫害の歴史であったとも言えます。

しかし、どんなにコーヒー排除の動きが出ても、コーヒーの魔力は決して潰えることなく益々世界に広がっていきます。

次回からは、ヨーロッパ各国でのコーヒー伝搬とその広がりについて書いて行きます。

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