入荷量が少ないため、芸大店と通販だけで販売していた、ブラジルのフルッタメルカドン、私がアフリカへ行くちょっと前に売り切れてしまい、次回入荷は12月になるということなのだが、けっこう芸大店には「フルッタメルカドンない?」と聞いてこられるお客様がいらっしゃる。
そこで、同じように嫌気性発酵、俗に言うアナエロビックの豆を探して、なんとか一般的な価格で販売できそうなコスタリカのものを探してみた。
こちらは、1週間嫌気性発酵の後ナチュラル精選したもので、非常にフルーティーということだったが、やはりフルッタメルカドンは一日の長があるというか、あのクオリティのものはそんなにお目にかかれない。
そんな中でも、控えめながらワイニーでフルーティーなコスタリカを少量仕入れられたので、代役として来週の芸大定休日明けから販売しようかと思っている。
さて、タンザニアに着いたときは、日本との時差ボケなどほとんどなく、普通に視察旅行ができていたのだが、帰国後はなぜだか時差ボケが解消されない。
なんだか夜になると目が冴えてしまう。
で、写真の整理などをしていて農園や珈琲関係以外で出てきた写真を何枚か。
都市部から農村部へ、高速道路なのか単なる自動車専用道路なのか分からないが、ともかく信号も歩道もない道を走っていて、少し渋滞してノロノロ運転になると、いきなり車の横に行商?の人たちがたかり始める。
ほとんど買っている人はおらず、たまに水や果物を売っている人から購入している現地の人を見かけるが、このお姉さんのような布関係は、まず誰も買わないだろうと思うのだが、みんな元気いっぱい笑顔をふりまいて売り込んでくるから面白い。
そして、タンザニアでもケニアでも、以前行ったエチオピアでも、ともかく道の隅や、家の前で座っている人をよく見かける。
不思議なのが、その道を通って農園などへ行って、3時間後とかに同じ道を戻ってきても、やはり同じところに同じ人が座っていることが多い。
もし、誰かが京都の街を車で走っていて、どこかのベンチに私が座っているのを見かけたら「何しているのかな?」と思うだろう。
私も、そういった人たちを見て「何をしているのかな?」と思ったのだが、聞けばこういう人たちは、何もしていない、ただ座っているだけだという答えが返ってきた。
アフリカの田舎町では、「定職につく」ということがほとんどない。
もちろん、コーヒー農園の人たちは、家業としてコーヒーの面倒は見ているが、多くの人は、毎日何か仕事をするというわけではなく、ともかく「生きている」ということだそうである。
こうして座っていると、誰かが「○○を手伝ってくれ」と声をかけ、その手伝いをしたら日本円にして1日100円程度もらい、また翌日も声がかかるかどうか分からないし、声をかけてもらおうというわけでもなく、道に座っている。
と言う人が多いらしい。
元気な時にアフリカへ行くと、大地のパワーがもらえるが、ひとたびネガティブな状態でアフリカへ行くと、精気を吸い取られてしまう。と言う人がいる。
今回は、元気と言うわけではなかったが、そんなにネガティブな気分でもなかったので、パワーを身にまとって帰国することも、精気を奪われることもなかったが、こうして「生きるために生きている」人たちを目の当たりにし続けていると、日々の仕事で感じているストレスとかって、なんなんだろう?と思ってしまう。
タンザニアの平均寿命、2010年以降は延びてきているとはいえ、まだまだ日本とは20年近く乖離している。
その大きな原因は、小学校を卒業する前くらいの年齢までに命を落とす子供が多いということも大きな要因。
農村部だと、病院なんてものはお目にかかれない、医者に診てもらうにも、都市部まで車を飛ばしても5~6時間というのが現実。
しかも、多くの子供は裸足で走り回っている。
足を切って破傷風になったら、そのまま命を落とすと言うことも珍しくない。
蚊に刺されてマラリアになり、ロクに薬ももらえず、免疫力も乏しいため、なくなる子供も多いと聞く。
野生動物の世界とまでは行かなくても、人間すらアフリカでは生きることが簡単なことではない世の中。
日本だと、小さな子供に「将来何になりたい?」なんて聞くことも少なくない。
それは、ほとんどの場合無事大人になれるというのが一般的な感覚だから言えること
しかし、アフリカの田舎では、無事大人になれない子供も大勢いる。
零細農家の庭先で、私に微笑みかけてくれたこの子供、将来何になるんだろう?ではなく、無事大人になってほしと切に望む、そんな世界を体験できる産地視察は、日本と言う国で常識だと思っていることが、実はそうとは限らない、という感覚のリセットにもなっている。