ちょっと前の日記で、ヴェルディで経理の仕事をしてもらっている方のご主人が、「アントン・ブルックナー」という書籍の翻訳をされた本が出版されたことを書いたが、今日やっと少しだけ読み始めてみた。
同時に、けっこう久しぶりにブルックナーの交響曲聴き比べも少しタート。
と言っても、ブルックナーとなると、なかなか自宅でゆっくり聴き比べる時間もないので、車のオーディオにCDから録音して聴きながら走らせているのだが、本当に演奏者によって世界観は変わるもの。
さらに言うと、私が以前にブルックナーを聴き比べていたのは学生時代の時間に余裕があったころだった。
そのころと今とでは、私の音楽に対する解釈も違うし、ブルックナーという作曲家に対する理解も違う、そういう中で聴くと、また学生時代とは違った観点で一つ一つの音、旋律・副旋律・和音を聴いている。
そして、この本を読み終えた後でもう一度聴いてみたら、また違ったものが見えてくるのかもしれないと思うと、また楽しみも増してくる。
少し前(と言っても、これまた私が学生だった頃のことだが)「ショスタコーヴィッチの証言」という本が出版された。
私はショスタコーヴィッチもよく聴く作曲家の一人だったので、非常に興味深く読んだ記憶がある。
そして、その本が出版された後に録音されたショスタコーヴィッチの交響曲第5番の中でも印象的だったのは、スラットキン指揮のセントルイス交響楽団のもの。
個人的には、バーンスタインによる1979年に東京文化会館でのライヴ盤が愛聴盤だったが、「証言」後の録音ということでスラットキン盤を聴いてみたところ、ものすごいスローテンポで全く違う表情を見せている興味深い演奏だった。
ショスタコの演奏も、この「証言」出版前と後で解釈が変わったと言っても良いかもしれないが、今ではその「証言」そのものについての真偽が議論されているのだから、何を解釈の前提としてよいのかすらよくわからない。
となると、結局のところ自分にとって良いと思える演奏のものを愛聴盤にするのがベストということだろう。
とは言え、書籍などでその曲に対する作曲家の考えだとか、どういう背景で作られた曲かなどが分かると、聴いていてもまた奥深い世界が見えてくるもの。
音楽と味覚は違うが、コーヒーにしても、そのコーヒーについてのバックグラウンドストーリーが分かると、より味わい深く楽しめるかもしれない。
そうしてみたら、やはり販売しているコーヒーについて、もっとお客様に深く楽しんで頂けるような情報を手軽に提供できるようにしたいと思う反面、あまりうるさくなっても嫌われそうなので、そのあたりの説明における匙加減も難しいところ。
ただ、情報というものは、正確なものだけが出回っているわけではない。
音楽とかコーヒーなら、間違った情報を鵜吞みにして聴いたり飲んだりしても何ら害はないが、現在の情報化社会においては、重要な情報も操作されている可能性があるから恐ろしい。
先日の兵庫県知事選挙の結果を見て、本当のところどの情報が真実なのか、私自身も良く分からなっているのだが、少なくとも兵庫県民の方々が正しいという判断を下したのは、テレビや新聞といった既存メディアの情報ではなく、ネットの情報という、ある意味今までの常識を覆す結果だった。
生きていく中では、小さなことから大きなことまで、常に何かの選択をしながら進んで行くわけだが、その選択の判断基準になるものの多様性と言うか、真偽判断は、本当に難しい時代になってきたと考えてしまう今日この頃。