昨年は、アントン・ブルックナー生誕200周年ということで、ブルックナー関係の書籍やCDの再販などが多くあり、私もいくつか聴き比べをする機会があった。
本当は、カラヤンが振る9番の66年盤、75年盤(ともにベルリンフィル)と76年のウィーンフィルライヴ録音盤を聴き比べたかったのだが、残念ながら66年盤が手に入らず断念。
そこで、たまたま中古で入手できた8番の57年盤と75年盤を聴き比べてみたのだが、当然と言われればそこまでだが、同じ指揮者とオケでも微妙に違っている。
どちらが良いというわけではなく、そのときカラヤンがスコアをどのように解釈していたのか、演奏を重ねるうちに変化しても然るべきなのであろう。
同じ交響曲でも、指揮者が変われば全く表情が変わってくるもので、他に私が持っているギュンター・ヴァントやオイゲン・ヨッフム、ロブロフォン・マタチッチなど(ヨッフムとマタチッチはLP盤)同じ曲でもこんなに違うのかと、聴いていて面白い。
コーヒーも同じで、全く同じ豆(生産国・農園・ロット等が全く同じもの)でも、焙煎する人が違うと、味わいも全く違うものになる。
その豆に対する見方が違うと、当然焙煎の仕方も変わってくるので、結果音楽における演奏、コーヒーにおける味は、指揮者や焙煎士がどう解釈して、それを具現化しているかということだと思う。
もちろん、「音楽(スコア)の解釈」「豆の解釈」というものを具現化するには、それができるだけの知識と技量が必要なわけで、中学生の部活オーケストラなんかが、演奏するとなったら解釈以前に楽譜通りに演奏することで精いっぱい。
コーヒーの焙煎も、それなりの経験と技術がなかったら、焼き色をつけるだけで精いっぱいなので、自分なりに豆を解釈して、それを具現化するというレベルには達しないものだと思う。
恐らくカラヤンに限らず、世の一流と言われている指揮者たちは、作曲家がどのように考え、どのような意図でスコアを書いたのかを追求したうえで、自分なりの解釈とスコアをどのように操り、オケをどのように鳴らすのか考えて、初めてタクトを振れるのであろう。
場合によっては、オケの特徴によって指揮も変わるかもしれない。
そうしてみると、やはりコーヒーも、産地はどのような気候風土で、どのような栽培、精選がされているのか、さらに、コーヒーの品種について、その品種の特徴や、できた経緯について、深く探りながら豆と向き合って、初めてその豆の解釈という域に達するように思う。
そして、それを具現化するための焙煎機が音楽で言うオーケストラと同じ。
各々の焙煎機の特徴によって、焙煎の仕方も変わってくる。
私が学生時代に、何か文章を書くときは、だいたい「今回はどの曲調にしようか」と考えていた。
例えば「今回は運命」と思ったら、最初にジャジャジャジャーン!とインパクトのある言葉で出だし、途中少し静かに進めつつ、最後は歓喜の内容を伴ってアップテンポに終結する、とか。
「悲愴」なら、暗く静かに立ち上げて、考えさせるよう仕向けつつ、普通ならワルツになりそうなところを変則的な5拍子という不思議なリズムを作りだし、悲しげながら美しい和音で魅せつつ、最後は消え入るような余韻で終わる、みたいに。
学生時代の私は、文章の書き方、持って行き方において、自分の好きな曲をメロディーではなく言語にして書いていたように思う。
で、60近くになって、何をしているかと言うと、結局は頭の中で豆をスコアに置き換えて、【産地・農園のテロワール=作曲家の思いや時代背景】や【品種の特徴=各楽器の音色】を考えて、演奏ならぬ焙煎をしているんだなぁ、と最近感じている。
そして、あるときはシングル(ピアノソナタだったり、無伴奏のヴァイオリンやチェロソナタだったり)、あるときはブレンド(オーケストレーション)だったり、個人的にはブレンドにこそ面白みを感じたりしている。
そんなこんなで、ブルックナーを聴きながら、なんとなくクラッシックと焙煎の相関について思いめぐらせていた。
今年はショスタコーヴィッチの没後50年。
また、いろいろな録音が出てきそうな気もするので、いろいろと聴き比べられたらいいなぁ・・・と思う。


