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カフェ・ヴェルディの気まぐれ日記

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戦争交響曲

2025年11月4日 

今日はお休みを頂く予定だったが、先の三連休中はデスクワークが全くできなかったので、午後から北白川で少しパソコンに向かった後、来週も引き続き人員が不足しているため、本当は明日配達する予定の豆で、今日用意できるものを積んで髙島屋へ。

北白川へ向かっていたら、久しぶりに四葉のヤサカ。

ちょっと前は、週に4~5台見かけていたのに、ここ数週間はぱったりと見かけなくなっていた。

髙島屋へ配達に行った後は店に戻らず自宅へ帰って、ちょっとゆっくり音楽鑑賞。

ショスタコーヴィッチ 交響曲第8番

指揮 ムラヴィンスキー レニングラードフィルハーモニー管弦楽団

先日、お客様とお話をしていたとき、「ショスタコーヴィッチは当時の権力に翻弄されて、本当に自分が作りたい曲をほとんど作れなかった」といった話になった。

自分の作りたい曲を作ることが良いことで、不本意な作曲をしなくてはならないことは、作曲家にとって残念なこと、という前提に成り立つ話ではあるが・・・

そんな話をしながら、何となくモヤモヤした気持ちが渦巻いた。

恐らく、世の中のほとんどのことは、知識と、その知識を具現化するための技術を磨ければ、そこそこのレベルに達することができると思う。

そこそこ以上、つまり、一流というのは、普通の人よりも膨大な知識を持って、それを常にアップデートしつつ、そこで得た知識を具現化するための技術を磨くことに余念のない人ではないだろうか。

よく、人の仕事を褒めるとき「センスがある」と言うことがある、けど、センスというのは恐らくそんな一流と超一流の差と言った感じではないかと思う。

逆を言うと、センスだけでできてしまう仕事があったとしたら、それはある意味浅いものではないだろうか。

が、後世に名を遺せる芸術家となると、当然知識と技術がものすごく必要であることは前提として、その上でその人の持っているセンスが人知を超えているように思う。多分、それが才能というものだろう。

そんな才能を持った人が、自身の才能を他の人や政治に利用されて不本意なものに使わなくてはならないというのは、ある意味残念なことかもしれない。

でも、世の中の作曲家と言われる人たちの中で、どれだけの人が自分の作りたい曲を作っているのだろうか。

政治に利用されていなくても、その時代で売れる曲を書くのが職業としての作曲家。

どんなに自分納得しても、周りの人が「素晴らしい曲だ」と言っても、売れなかったらその楽譜は紙くずにすぎない。

一方で、自分が納得できなくてもヒットすれば、その曲は高い評価を受ける。

ヒットすることに喜びを感じて、売れる曲を作ることが自分の作りたい曲だと思えれば、それは幸せなことかもしれない。

ただ、その時代にどれだけ売れても、その時代の人が好む曲というのは、数十年後に残っている曲は、ほんの一握り。

しかし、ショスタコーヴィッチは、当時の権力者に翻弄されながらも、その時代にある意味で迎合した曲を作っていても、死後50年経った今もなお多くの録音が新譜として販売され、多くの国で演奏されている。

時代の政治に求められるものを作っていたようでいて、実は普遍性も兼ね備えた芸術を作り上げていたからこそであろう。

モーツァルトは、本当に自分が作りたい曲だけを作っていたのだろうか?

今、ものすごい金額で取引される絵画を描いた画家たちはどうなのだろうか?

作曲家に限らず、現在著名な芸術家の中には、生前は認められず過酷な生活を余儀なくされた人も少なくない。

その人たちは、その時代の人に認められなくても、自分が作りたい作品を作っていれば、本当に満足だったのだろうか、人生を良いものと思えたのだろうか?

なんてことを思いながら聴くショスタコーヴィッチの第8番、通称「戦争交響曲。」

人生における成功とは何なのだろうか?

自己実現とは何なのだろうか?

そして、幸せな人生って何なのだろうか?

ちょっと考えさせられる曲であった。

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