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カフェ・ヴェルディの気まぐれ日記

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verdi マスターの投稿

知らなくてもいい珈琲の話-その16【ド・クリューの功績-後編】

2021年5月2日 

先週に引き続き、ガブリエル・ド・クリューのコーヒー移植について書きます。

1723年にナントの港を出たド・クリューは、一難去ってまた一難という苦難の船旅を無事に乗り切って、マルティニーク島へ無事コーヒーの木を持ち帰ることに成功しました。

島に着くと、彼の自宅にある庭に若木を植えましたが、木を盗まれることを恐れ、常に目の届く場所を選び、さらに木が大きくなるまでは棘の灌木で囲んだうえ、番人まで立てたと言います。

ド・クリューは、「船上で危機を乗り越えるたび、この木に対する愛着が増し、どれほど大切に育てても大切にし足りないと思えるほどだった。」と語っていたそうです。

18世紀のマルティニーク島で、まだ珍しいコーヒーの木を盗もうとする者がいてもおかしくはありませんが、私がブラジルの農園へ行ったときも、農場主たちはド・クリューのような細心の注意をはらって木を育てていたのを思い出します。

COE優勝農園へ行ったとき、ゲイシャを育てているけど見るか?と言われ、ピックアップトラックの荷台に乗って向かったのですが、普通にカツーラやブルボンが奇麗に列をなして植わっている中に、ほんの一部だけ小さく番号札がついた木がありました。

「これがゲイシャ」と言われたものの、これは知っている人でないと絶対に分かりません。

「どうして他の木と全く判別がつかない状態で育てているのか?」と訊いたら、「泥棒が、どの木がゲイシャか分からなくするため」と。

この中の数本だけがゲイシャ。一歩外に出たらどれがどれか全くわからない。

「木の葉を隠すなら森の中」とは、まさにこのことだと思いました。

が、18世紀のマルティニーク島には、まだコーヒーの木が1本しかありません。

なので、逆に目立つものの、盗みにくいよう棘の灌木に番人だったのでしょう。

話は戻り、ド・クリューの木は想像以上に順調に成長し、3年後の1726年には2ポンド(約900g)の種を収穫、その種を大切に育ててくれそうな人に配り、コーヒーの木を増やして行きました。

翌年には、さらに豊作でより多くの種を収穫できたのですが、当時のマルティニーク島における一大産業はカカオの栽培でした。

ところが、1728年に巨大ハリケーンがマルティニーク島を襲い、カカオの木が壊滅状態に陥ってしまいました。

そんなとき、カカオに代わって植えられたのがコーヒーの木で、その後50年ほどの間にマルティニーク島は1,879万本のコーヒーの木が生い茂る、文字通り「コーヒー生産国」となりました。

帰島当時、歩兵隊長だったド・クリューは、最初の収穫があった1726年には歩兵大隊長、1737年にはグァドループ総督、1750年には聖ルイ勲章であるコマンドールを受賞。

1746年フランスへ戻り、ルイ15世に謁見した折、海軍大臣のルイエ・ド・ジュールから「フランスと植民地およびその商業全般に対し、コーヒーの栽培で目覚ましい貢献をした類まれな将校」と紹介されています。

1760年に退役、1774年に88歳で逝去。

その訃報は、新聞でも大きく取り上げられましたが、その後のフランス革命後、聖ルイ勲章受章者であるド・クリューの名は長く忘れられていました。

しかし、1918年マルティニーク島のフォール・ド・フランスにド・クリューに捧げる植物園ができました。

もし、マルティニーク島でコーヒー栽培がおこなわれていなかったとしても、どこかのタイミングで現在の生産国にコーヒーの木は移植されていたことでしょう。

しかし、ド・クリューがいなかったら、確実にコーヒーの歴史に刻まれた年代譜は違うものになっていました。

現在私たちが飲んでいる中米のコーヒー、その第一歩はフランスの歩兵隊長によって踏み出されたもの、ガブリエル・ド・クリューに畏敬の念を持たずにはいられません。

今日はパスで

2021年4月30日 

雨上がりの今朝は、空気が澄んで気持ち良いものの、けっこう雲も多く景色はイマイチだった。

そんな今日は、ちょっと睡魔に襲われているので日記はパスで。

昨日も書きましたが、明日から5日まで芸大店は臨時休業。

下鴨店は、5日まで休まず営業しております。

どうぞよろしくお願いいたします。

美味しかったもの、面白かったもの

2021年4月29日 

最初にお知らせです。

ヴェルディ京都芸術大学店は、緊急事態宣言発令にともない、5月1日~5日まで臨時休業を頂きます。

なお、下鴨本店は営業しております。

どうぞよろしくお願いいたします。

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さて、先日ちょっと大阪へ行ったときに立ち寄った 森のらくださん。

オススメは?ときいたら「ガトーショコラ」ということだったので頂いてみた。

これが、とても美味しくて、もし近くにあったら週に1回は食べに行きたいかも。

話は変わって、先日東山通を走っていたら、胡蝶蘭が並んでいるお店が目についた。

信号待ちでよく見ると、歯ブラシ専門店だった。

そんなに磨きやすいのだろうか?

一度ここで歯ブラシを買ってみよう。

そして、カレーを食べに行ったときに目についたメニューの表示。

コラ!

ソダー

「大根の透けもの」って、「つけもの」が「すけもの」に聞こえたんだろうけど、ちゃんと漢字に変換されているところが面白い。

「achar」の訳なので、「漬物」が正解なのだろう。

日本人って、ともかくきちんと正確に話したり書いたりしなくてはと思いがちだが、インド人って、正確性に欠けても通じればいい程度でガンガンくるから強いよなぁ、と思ってしまう。

私も見習って、正確でなくてもガンガン行くようにしてみよう。

かな?

なかなかディープだった。

2021年4月27日 

日曜の夜に車で出て、月曜の夜に戻ってくるというなかなか強行東京だったが、その目的の一つが新大久保のDOMOさんへ行くことだった。

先日送ったブレンドの味作りが上手く行かないというメールが届いた。

店長さんが変わったこともあり、新しい店長さんにお目にかかりたいということもあったのと、ブレンドに使っている豆が一部変わったこともあり、伺うことにした。

ニカラグアがリモンシージョ農園に変わったこともあり、若干酸味が強くなった感はあった。

店の方に抽出して頂き、その後私も抽出して、味そのものは問題ないと思うものの、「味が作りにくい」という理由が概ね分かったので、次の焙煎で以前のロットのときに近づけられるように注意してみよう。

丁寧に入れてくださっていて有難うございます。

さて、新大久保へ行ったら何を食べるかと言うと、ネパール料理!

コリアンタウンと思われている新大久保だが、最近はネパール人の方が多くなっているそうな。

で、スパイス屋さんの入り口で、食事をしたいと言ったら、店の奥のカーテンで仕切られているスペースに案内され食事ができる。

お店の名前は「ソルティカージャガル」正直ものすごく分かりにくいが、かなりディープなネパール料理を頂けた。

ソルティスペシャルというターリーを頂いた。

真上から見るとこんな。

真ん中はご飯ではなく「そば粉」と書かれていたが、かないり弾力のある蕎麦掻と言うか、そば餅?。

カレーと言うか、タルカリは、マトン、チキン、ベジ、スクティから選ぶということだが、「スクティ」とは干したヤギ肉だとか。

もちろん、そのスクティを頂いてみたが、臭さは全くなくて、けっこう美味しかった。

水牛のモモも頂いてみた。

京都にも、ネパール人がやっている料理店が多いものの、こんなにディープなネパール料理には出会えない。

やはり東京はすごいなぁ、と思うのであった。

ちょっと東京へ

2021年4月27日 

昨夜の仕事を終えた後、いくつか用事があって、ちゃらっと車で東京へ。

足柄サービスエリアから見えた富士山がきれいだった。

夜中に高速を走って、東京に到着したのが朝の6時前。

サービスエリアのフードコートも夜の9時には閉まってしまうし、朝もそんなに早くなくて・・・

ものすごく久しぶりにファミレスのモーニングを食べてみた。

ドリンクバーがセットになっていたので、何を飲もうかと思いながら、ちょっと見てみたら・・・

まぁ、ゲイシャと言ってもピンからキリまであるけど、もうファミレスにまで出てくるようになってしまったのか!と。

味の方は、わりと深く煎ってあるということもあるだろうが、ゲイシャフレーバーは全くしないが、下手に極浅煎りにして酸っぱいだけのものよりは良かった。

そして、20数年ぶりに、花小金井の「つの笛」さんへ。

コーヒーを飲もうと思ったら、喫茶部門をやめて豆売り専門になられていた。

ちょっと残念だったが、お試しセットというのを購入させて頂いた。


ハイチ、コスタリカ、グァテマラ、ペルーの4種類が各30グラムずつ入ったセット。

水曜日にでも飲んでみようと思う。楽しみ。

と、この時点でまだ10時半過ぎだったが、明日は京都で予定が入っているため今日中に戻らねばならない。

そんなわけで、コーヒー豆を購入したら、新大久保へ向かうのであった。

で、新大久保の用事を終えて、もう一つの用事もこなして再び高速道路を飛ばして京都へ戻り、この日記を書いているが、さすがに2日間で数時間仮眠をとっただけで京都と東京を往復したら、ちょっと睡魔に襲われてきたため、今日の日記はここまで。

新大久保の方は、明日に続く。

知らなくてもいい珈琲の話-その15【ド・クリュー功績-前編】

2021年4月25日 

前回までは、植物としてのコーヒーがどのように世界に広がったかを書いてきましたが、今回はその中でもとりわけ重要な役割を果たした人物について詳しく紹介します。

現在のスペシャルティコーヒーをけん引するのは、間違いなく中米の生産国。

その中米の祖木となったのは、1616年(「いろいろ」と覚えてください。まぁ、覚えなくてもいいですけど)にオランダ人旅行者がイエメンのアデンからオランダへ持ち帰った木と言えます。

しかし、オランダから直接中米へ渡ったわけではなく、その後約100年の間に栽培によって増えた木の一本が、フランス(パリ)に渡り、その木が実質的な祖木となりました。

その木は、1714年にフランス政府とアムステルダム市が折衝を行った結果、アムステルダム市長からルイ十四世に贈られた、樹高5フィート(約1.52メートル)の若木です。

マルリ城に到着したコーヒーの木は、翌日パリ植物園へ移され、アントワーヌ・ド・ジュシューという植物学者(1686~1758)によって大切に植え替えられて、すくすくと育ち多くの実をつけました。

それから10年ほどの間に、ルイ十四世に寄贈されたコーヒーの木はカリブ海の植民地へ移植しようとされましたが、ともに失敗してしまいます。

そんな中、私用でフランスに帰国していた、マルティニーク島の歩兵隊長で海軍将校だったガブリエル・ド・クリューが自身が住むマルティニーク島へコーヒーの木を移植しようと考えます。

しかし、そのコーヒーの木は厳格に管理されていて、入手困難に思われました。

そこで、彼は知り合いだった王の典医シラク医師の力を借りて、生命力の強そうな苗木を譲り受けることになります。

長い航海に耐えられそうな苗木を選び、出港まではロシュフォールの監督官であったM・ベロンにより厳格に保管されました。

そして、いよいよマルティニーク島へ出航となったのですが、ド・クリューがマルティニーク島にコーヒーの木を持ち込んだ年については2つの説があります。

1つは1720年、そして現在よく知られている説は1723年。

今のように、フランスからカリブの島へ、飛行機で1日飛べば行ける世の中ではなかったので、長い時間をかけてモーターなどなど付いていない帆船で航海しなくてはなりませんでした。

8℃を下回ると枯れてしまう、しかも大量の水を必要とするコーヒーの木を長い航海で移植すると言うことは、今の感覚では考えられないほど大変な作業だったことは想像に難くなりません。

どうやら、ド・クリューは二回航海をして、一回目は枯らしてしまい、二回目で苗木の移送に成功したようです。

M・ベロンによって保管され持ち出された苗木を枯らしてしまったド・クリューは、二度目の航海時、出港直前に種を植えて船上で発芽した苗木を育てつつ移送したという説があります。

ド・クリューが残した航海手記によると水不足が苗木と自分の生命を脅かしたと語っています。

と言うのも、この航海はまさに波乱万丈だったようです。

ド・クリューが乗った商船は、チェニスで海賊に襲われ、やっとの思いで難を逃れると、今度は大嵐に遭い、危うく海の藻屑となりかけ、嵐が去った後は長く続く凪にあって飲み水が底をつき、残りの航海は満足な水の配給がなかったからです。

ド・クリューは手記に「水が不足して、一か月以上の間、配給される僅かな水を私の希望の光ともいえるコーヒーの木と分かち合った。その木はまだ幼く脆弱で、成長も遅れて弱りかけていたため、より手をかけて世話をしなくてはならなかった。」と書いています。

ド・クリューは毎日甲板で苗木を日にあて、曇りの日や寒い日にも苗が死なないよう保温性を考えたガラス箱に入れていたと言います。

そんな中、この苗木を盗もうとする者も現れたようですが、ド・クリューは我が子のように大切に木を守り、海賊という外敵や、嵐と凪という自然の脅威、そして船内に潜む盗人という卑劣な同行者の難を逃れ、なんとかマルティニーク島への移送に成功しました。

つづく

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